自己紹介
- 2025/04/25

はじめまして。遠藤たけしと申します。
私は兵庫県尼崎市生まれ。現在は妻と東京都内の賃貸住宅暮しです。
31年間勤務した会社を定年3年前に早期退職し、企業年金とフリーランス収入で生計を立てています。
1991年4月に新卒で入社。まさにバブル世代。
50歳から中間管理職として年収も8桁になり、そのまま働いていたら、さらに数千万の収入が得られている.…はずでした。なのに定年を待たずに早期退職という決断をしました。
バブルの雰囲気が色濃く残る20代
私が入社した1991年、バブルはすでに弾けていたものの、働き方はその雰囲気が色濃く残っている時期でした。「24時間戦えますか♪」こんなコマーシャルと同時に売上を伸ばしていたのが栄養ドリンク剤「リゲイン」。

徹夜もなんのその、会社に忠誠を尽くし常に全力で仕事に取り組む姿勢が求められていました。
バブル期私が最初に配属されたのは研究開発部でした。世の中にない機能を持つ新素材の開発が主な業務です。当時の上司も、まさにスポコンで出てくる「気合だ!根性だ!」で押し通すタイプでした。
そんな上司の元、毎日実験、分析、報告書、文献調査、また実験の日々を過ごします。
月に何十時間残業しようが、すべてそれは残業とカウントされない、いわゆるサービス残業です。当時はそれが当たり前。みんなそんなものと思い夜遅くまで働いていました。
そんな日々が10年間ほど続いたある日、研究所長に別室に呼ばれたのです。
営業部に異動を告げられた30代
告げられたのは、東京転勤。それも営業部門です。営業部私にとってはまさに青天霹靂でした。

なぜなら高校3年生から大学までずっと理系だったからです。なぜ理系一筋の私に営業部への辞令がでたのか…いまはもうそれを知る由はありません。
サラリーマンとはこういう運命。人生の一大イベントが知らぬ間にどこかで決められ告げられるのです。
不安と期待の入り混じった営業部
理系出身の私が営業部門に配属され作り手から売り手に。開発と販売とでは大違い。
本当に自分にできるのか不安でたまりませんでした。

不安しかし一つだけ、私にはできそうな気がする経験がありました。それは、研究職時代にときおり営業に同行して顧客訪問の経験があったことです。
私が訪問する時は、たいてい新しくできた商品の説明やクレームがあった時の原因の説明でした。
顧客と対話を通じて信頼を勝ち取り、自社の商品を使ってもらう。
よく考えてみれば、これこそ営業の重要な活動。一からすべて習得する必要もなさそうだな、という感覚はありました。
結構楽しかった営業活動
意外にも営業の仕事は結構楽しいものでした。元々研究開発部門にいたこともあって、素材の知識は豊富にあります。顧客のどんな質問にもその場で答えることができました。
また、少しでも不具合があれば、そのまま元いた研究部門の研究員に状況を正確に伝えることができます。結果、改良品を短時間で提案でき、徐々に顧客の信頼を獲得することができたのです。
また、接待。お仕事の延長ではありますが、お昼は通常の営業活動を行い、夜はその顧客と楽しいひと時を過ごすのです。一緒に飲食を共にすることで人となりが理解でき、より強固な関係を築いていけます。

顧客との会食お酒が入れば難しい仕事の話はどこへやら。趣味や家族、会社の愚痴など人としていろいろな勉強をさせてもらったのもこの時期です。当時30代だった私が相手にするのは50才前後の部長や工場長。結構かわいがられていたような気がします。
休日もゴルフ接待がありました。プライベートでもゴルフスクールに通い、恥ずかしくない程度の腕まで上げました。
研究開発に逆戻りの40代
楽しく毎日営業活動に勤しんでいたとある日、営業部長に呼ばれます。
「研究開発に戻ってください」。「え?」。ガーン!楽しく頑張っていた営業部門でのお仕事もこの一言でおしまい。また、知らないどこかで人の運命をもてあそんでいる人がいる。「楽しく、頑張っていたのに」と言ってもこれだけはサラリーマンの宿命。
行けと言われたら従わなければその先の出世はあきらめなければいけません。ということで、また研究開発に逆戻り。
毎週国内のいろいろなところに出張していた生活が毎日会社で研究する退屈な日々に逆戻りです。
刺激のない研究開発の仕事
2回目の研究開発部での業務は、毎日がとにかく苦痛。営業部で国内を飛び回り、予測不能な顧客を相手にしていた刺激的な業務から、コツコツ実験というのは気持ちがついていかない。

退屈な2回目の研究部顧客訪問もなし。これではせっかく積み上げてきた営業部門の経験はまったく生かせないじゃない。ということで毎回毎回、上司との面談は、「営業に戻してくれ」でした。
希望通り営業に戻れた営業部
そうこうしているうちに方針が営業部門とコラボしながら市場調査と開発を同時進行させましょうという風に変わりました。
そこで、日頃から営業に戻せとうるさく言っている私に白羽の矢が。営業経験のある私ならスムーズに営業にもどれるでしょう、ということで再び営業部門に戻ることができました。喜んだのは束の間。
戻った営業部門は顧客のいない営業開発部。要するに営業部門に籍を置き、新規顧客開拓を行うことを主なミッションとする部署に配属されたのです。
う~ん、微妙。以前の既存顧客への販売ではなく、新たに開発されるであろう素材を買ってくれそうな顧客を探すのです。営業は売る商材があってこそ。
開発しながら顧客を見つけることはなかなか困難を極めました。理由はシンプルです。
開発中なので値段が決まっていない、生産できるかどうかも分からない、できた製品が顧客に提供できるメリットが説明できない。まさに三重苦です。結局、開発プロジェクトが解散してしまいました。
化学物質の法律を担当
プロジェクトが解散したことで私の営業開発としてのお仕事も終わり。営業部内での配置異動で化学物質の法律関係の業務を担当することになりました。
そもそも一般人にとって化学物質関係の法律は、よほどのことがない限りなじみはないでしょう。実は、化学物質の取り扱いに関する法律は、日本にはたくさんあるのです。
消防法、化審法(化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律)、化管法(化学物質排出把握管理促進法)、安衛法(労働安全衛生法)、毒劇法(毒物及び劇物取締法)などなど。

さまざまある化学物質の規制会社が販売する素材がこれらの法律に違反していないか、販売する顧客がしっかり法律を守れるように対策ができているか、などをチェックする部署です。
なにぶん法律ですので、難しい。そして結構な頻度で改定される。そこで常に最新の情報を入手して自社の商品への影響度を確認する。
これが主な私の業務でした。不慣れな私もいつまでもそういってられない。先輩に教えてもらいながら、何とかこなしていました。この業務を通じて習得したスキルは調査能力。業界団体、セミナー、ネットなど駆使して最新の情報を入手。
対応すべきことがあればすぐに行動に移す仕事のやり方でした。
早期退職を決意
そうこうしている内に56歳になりました。このまま現業を続けて定年も悪くない選択です。
月収もそこそこ。ボーナスも出ます。このまま続けていても大きな失敗も大きな挑戦もないでしょう。ただ毎日同じことの繰り返し。そして組織もだいぶ若返りました。当時の上司は、私より年上でしたが、一足先に定年退職します。
後任はおそらく若い部長がマネジメントとして赴任するでしょう。何人かの先輩はシニア制度であと数年残る方もいらっしゃいますが、現役で言えば私が最年長。そろそろ潮時かな、という思いが強まりました。
ということで、会社人生に見切りをつけ、これからは自分で稼ぐことにチャレンジしていく決心をしました。

退職を決意それが退職2年前。その2間間でじっくりと準備を進めました。
・家計の把握
・固定費の削減
・社会保険制度の理解
・雇用保険制度の理解
・家族の同意
・年金+αの収入源確保
・家族の同意などなど。
退職したことは、いま振り返って考えても、1mmも後悔していません。